「まだ、さきでござるのう。」
利仁は微笑した。悪戯《いたづら》をして、それを見つけられさうになつた子供が、年長者に向つてするやうな微笑である。鼻の先へよせた皺《しわ》と、眼尻にたたへた筋肉のたるみとが、笑つてしまはうか、しまふまいかとためらつてゐるらしい。さうして、とうとう、かう云つた。
「実はな、敦賀《つるが》まで、お連れ申さうと思うたのぢや。」笑ひながら、利仁は鞭を挙げて遠くの空を指さした。その鞭の下にはてきれきとして、午後の日を受けた近江《あふみ》の湖が光つてゐる。
五位は、狼狽《らうばい》した。
「敦賀と申すと、あの越前《ゑちぜん》の敦賀でござるかな。あの越前の――」
利仁が、敦賀の人、藤原|有仁《ありひと》の女婿《ぢよせい》になつてから、多くは敦賀に住んでゐると云ふ事も、日頃から聞いてゐない事はない。が、その敦賀まで自分をつれて行く気だらうとは、今の今まで思はなかつた。第一、幾多の山河を隔ててゐる越前の国へ、この通り、僅二人の伴人《ともびと》をつれただけで、どうして無事に行かれよう。ましてこの頃は、往来《ゆきき》の旅人が、盗賊の為に殺されたと云ふ噂《うはさ》さへ、諸方にある。――五位は歎願するやうに、利仁の顔を見た。
「それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句が越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、さう仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。――敦賀とは、滅相な。」
五位は、殆どべそを掻かないばかりになつて、呟《つぶや》いた。もし「芋粥に飽かむ」事が、彼の勇気を鼓舞しなかつたとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独り帰つて来た事であらう。
「利仁が一人居るのは、千人ともお思ひなされ。路次の心配は、御無用ぢや。」
五位の狼狽するのを見ると、利仁は、少し眉を顰《しか》めながら、嘲笑《あざわら》つた。さうして調度掛を呼寄せて、持たせて来たつぼやなぐひを背に負ふと、やはり、その手から、黒漆《こくしつ》の真弓《まゆみ》をうけ取つて、それを鞍上に横へながら、先に立つて、馬を進めた。かうなる以上、意気地のない五位は、利仁の意志に盲従するより外に仕方がない。それで、彼は心細さうに、荒涼とした周囲の原野を眺めながら、うろ覚えの観音経《くわんおんぎやう》を口の中に念じ念じ、例の赤鼻を鞍の前輪にすりつけるやうにして、覚束ない馬の歩みを、不相変《あひかはらず》とぼとぼと進めて行つた。
馬蹄の反響する野は、茫々たる黄茅《くわうばう》に蔽《おほ》はれて、その所々にある行潦《みづたまり》も、つめたく、青空を映したまま、この冬の午後を、何時かそれなり凍つてしまふかと疑はれる。その涯《はて》には、一帯の山脈が、日に背いてゐるせゐか、かがやく可き残雪の光もなく、紫がかつた暗い色を、長々となすつてゐるが、それさへ蕭条《せうでう》たる幾叢《いくむら》の枯薄《かれすすき》に遮《さへぎ》られて、二人の従者の眼には、はいらない事が多い。――すると、利仁が、突然、五位の方をふりむいて、声をかけた。
「あれに、よい使者が参つた。敦賀への言づけを申さう。」
五位は利仁の云ふ意味が、よくわからないので、怖々《こはごは》ながら、その弓で指さす方を、眺めて見た。元より人の姿が見えるやうな所ではない。唯、野葡萄《のぶだう》か何かの蔓《つる》が、灌木の一むらにからみついてゐる中を、一疋の狐が、暖かな毛の色を、傾きかけた日に曝《さら》しながら、のそりのそり歩いて行く。――と思ふ中に、狐は、慌《あわ》ただしく身を跳らせて、一散に、どこともなく走り出した。利仁が急に、鞭を鳴らせて、その方へ馬を飛ばし始めたからである。五位も、われを忘れて、利仁の後を、逐《お》つた。従者も勿論、遅れてはゐられない。しばらくは、石を蹴る馬蹄の音が、戞々《かつかつ》として、曠野の静けさを破つてゐたが、やがて利仁が、馬を止めたのを見ると、何時、捕へたのか、もう狐の後足を掴《つか》んで、倒《さかさま》に、鞍の側へ、ぶら下げてゐる。狐が、走れなくなるまで、追ひつめた所で、それを馬の下に敷いて、手取りにしたものであらう。五位は、うすい髭にたまる汗を、慌しく拭きながら、漸《やうやく》、その傍へ馬を乗りつけた。
「これ、狐、よう聞けよ。」利仁は、狐を高く眼の前へつるし上げながら、わざと物々しい声を出してかう云つた。「其方、今夜の中に、敦賀の利仁が館《やかた》へ参つて、かう申せ。『利仁は、唯今|俄《にはか》に客人を具して下らうとする所ぢや。明日、巳時《みのとき》頃、高島の辺まで、男たちを迎ひに遣《つか》はし、それに、鞍置馬二疋、牽かせて参れ。』よいか忘れるなよ。」
云ひ畢《をは》ると共に、利仁は、一ふり振つて狐を、遠くの叢《くさむら》の中へ、抛《はふ》り出した。
「いや、走るわ。走るわ。」
やつと、追ひついた二人の従者は、逃げてゆく狐の行方を眺めながら、手を拍《う》つて囃《はや》し立てた。落葉のやうな色をしたその獣の背は、夕日の中を、まつしぐらに、木の根石くれの嫌ひなく、何処までも、走つて行く。それが一行の立つてゐる所から、手にとるやうによく見えた。狐を追つてゐる中に、何時か彼等は、曠野が緩《ゆる》い斜面を作つて、水の涸れた川床と一つになる、その丁度上の所へ、出てゐたからである。
「広量《くわうりやう》の御使でござるのう。」
五位は、ナイイヴな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐さへ頤使《いし》する野育ちの武人の顔を、今更のやうに、仰いで見た。自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。――阿諛《あゆ》は、恐らく、かう云ふ時に、最《もつとも》自然に生れて来るものであらう。読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間《ほうかん》のやうな何物かを見出しても、それだけで妄《みだり》にこの男の人格を、疑ふ可きではない。
抛り出された狐は、なぞへの斜面を、転げるやうにして、駈け下りると、水の無い河床の石の間を、器用に、ぴよいぴよい、飛び越えて、今度は、向うの斜面へ、勢よく、すぢかひに駈け上つた。駈け上りながら、ふりかへつて見ると、自分を手捕りにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立つてゐる。それが皆、指を揃へた程に、小さく見えた。殊に入日を浴びた、月毛と蘆毛とが、霜を含んだ空気の中に、描いたよりもくつきりと、浮き上つてゐる。
狐は、頭をめぐらすと、又枯薄の中を、風のやうに走り出した。
――――――――――――――――――
一行は、予定通り翌日の巳時《みのとき》ばかりに、高島の辺へ来た。此処は琵琶湖に臨んだ、ささやかな部落で、昨日に似ず、どんよりと曇つた空の下に、幾戸の藁屋《わらや》が、疎《まばら》にちらばつてゐるばかり、岸に生えた松の樹の間には、灰色のさざなみをよせる湖の水面が、磨くのを忘れた鏡のやうに、さむざむと開けてゐる。――此処まで来ると利仁が、五位を顧みて云つた。
「あれを御覧《ごらう》じろ。男どもが、迎ひに参つたげでござる。」
見ると、成程、二疋の鞍置馬を牽いた、二三十人の男たちが、馬に跨がつたのもあり徒歩《かち》のもあり、皆水干の袖を寒風に翻へして、湖の岸、松の間を、一行の方へ急いで来る。やがてこれが、間近くなつたと思ふと、馬に乗つてゐた連中は、慌ただしく鞍を下り、徒歩の連中は、路傍に蹲踞《そんきよ》して、いづれも恭々しく、利仁の来るのを、待ちうけた。
「やはり、あの狐が、使者を勤めたと見えますのう。」
「生得《しやうとく》、変化《へんげ》ある獣ぢやて、あの位の用を勤めるのは、何でもござらぬ。」
五位と利仁とが、こんな話をしてゐる中に、一行は、郎等《らうどう》たちの待つてゐる所へ来た。「大儀ぢや。」と、利仁が声をかける。蹲踞してゐた連中が、忙しく立つて、二人の馬の口を取る。急に、すべてが陽気になつた。
「夜前、稀有《けう》な事が、ございましてな。」
二人が、馬から下りて、敷皮の上へ、腰を下すか下さない中に、檜皮色《ひはだいろ》の水干を着た、白髪の郎等が、利仁の前へ来て、かう云つた。「何ぢや。」利仁は、郎等たちの持つて来た篠枝《ささえ》や破籠《わりご》を、五位にも勧めながら、鷹揚《おうやう》に問ひかけた。
「さればでございまする。夜前、戌時《いぬのとき》ばかりに、奥方が俄《にはか》に、人心地《ひとごこち》をお失ひなされましてな。『おのれは、阪本の狐ぢや。今日、殿の仰せられた事を、言伝《ことづ》てせうほどに、近う寄つて、よう聞きやれ。』と、かう仰有《おつしや》るのでございまする。さて、一同がお前に参りますると、奥方の仰せられまするには、『殿は唯今俄に客人を具して、下られようとする所ぢや。明日巳時頃、高島の辺まで、男どもを迎ひに遺はし、それに鞍置馬二疋牽かせて参れ。』と、かう御意《ぎよい》遊ばすのでございまする。」
「それは、又、稀有《けう》な事でござるのう。」五位は利仁の顔と、郎等の顔とを、仔細らしく見比べながら、両方に満足を与へるやうな、相槌《あひづち》を打つた。
「それも唯、仰せられるのではございませぬ。さも、恐ろしさうに、わなわなとお震へになりましてな、『遅れまいぞ。遅れれば、おのれが、殿の御勘当をうけねばならぬ。』と、しつきりなしに、お泣きになるのでございまする。」
「して、それから、如何《いかが》した。」
「それから、多愛なく、お休みになりましてな。手前共の出て参りまする時にも、まだ、お眼覚にはならぬやうで、ございました。」
「如何でござるな。」郎等の話を聞き完《をは》ると、利仁は五位を見て、得意らしく云つた。「利仁には、獣《けもの》も使はれ申すわ。」
「何とも驚き入る外は、ござらぬのう。」五位は、赤鼻を掻きながら、ちよいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。口髭には、今飲んだ酒が、滴《しづく》になつて、くつついてゐる。
――――――――――――――――――
その日の夜の事である。五位は、利仁の館《やかた》の一間《ひとま》に、切燈台の灯を眺めるともなく、眺めながら、寝つかれない長の夜をまぢまぢして、明《あか》してゐた。すると、夕方、此処へ着くまでに、利仁や利仁の従者と、談笑しながら、越えて来た松山、小川、枯野、或は、草、木の葉、石、野火の煙のにほひ、――さう云ふものが、一つづつ、五位の心に、浮んで来た。殊に、雀色時《すずめいろどき》の靄《もや》の中を、やつと、この館へ辿《たど》りついて、長櫃《ながびつ》に起してある、炭火の赤い焔を見た時の、ほつとした心もち、――それも、今かうして、寝てゐると、遠い昔にあつた事としか、思はれない。五位は綿の四五寸もはいつた、黄いろい直垂《ひたたれ》の下に、楽々と、足をのばしながら、ぼんやり、われとわが寝姿を見廻した。
直垂の下に利仁が貸してくれた、練色《ねりいろ》の衣《きぬ》の綿厚《わたあつ》なのを、二枚まで重ねて、着こんでゐる。それだけでも、どうかすると、汗が出かねない程、暖かい。そこへ、夕飯の時に一杯やつた、酒の酔が手伝つてゐる。枕元の蔀《しとみ》一つ隔てた向うは、霜の冴えた広庭だが、それも、かう陶然としてゐれば、少しも苦にならない。万事が、京都の自分の曹司《ざうし》にゐた時と比べれば、雲泥の相違である。が、それにも係はらず、我五位の心には、何となく釣合のとれない不安があつた。第一、時間のたつて行くのが、待遠い。しかもそれと同時に、夜の明けると云ふ事が、――芋粥を食ふ時になると云ふ事が、さう早く、来てはならないやうな心もちがする。さうして又、この矛盾した二つの感情が、互に剋し合ふ後には、境遇の急激な変化から来る、落着かない気分が、今日の天気のやうに、うすら寒く控へてゐる。それが、皆、邪魔になつて、折角の暖かさも、容易に、眠りを誘ひさうもない。
Примечания
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